2012年11月28日

大学生になった。

大学生になった。

子供のころから想像していた、学生生活。

都会での独り暮らし、バイト、私服、教授、講義、ゲタ、自由

こんな言葉が、僕の中での大学生だった。

入学が決まり、大学から連絡が着た。

『入学式で、宣誓をしてほしい。』

『へえ~、たまげた。』

周りの人たちは、半分ぐらいは信じていない。

宣誓書を筆で描いた。

姉さんの指導の下、ワクワクしながら書いた。

リハーサルということで、学部まで行き、宣誓文のチェック。

事務局の方のみかと思っていたら、教授の方々がおおぜいいらっしゃる。

『では、宮代君、読んでみて。』

『(ちょっと照れ笑いして)はい。』

『にやにやしないで、もう一度!』

『(今度は膝をがくがくさせて)はい!』

『ここに選ばれて、○※▽#◎■...。』

読み終えて、皆さんが宣誓のことを相談中。

『どうですか。』

『良いですかね。』

『なまりが少しありますが、良いですね。』

訛りがある?うそッ!

訛りなんてないと思ってたのに。

『はいOKです。当日は式場の一番前に来てください。少し早く。』

『今日はご苦労様。』

『はい、ありがとうございました。』

来た時と帰るときは別人だ。

ちなみにこの宣誓書は、学校に永久的に保管されるとのこと。

今でもあるのだろうか。

それから数日して、親父とおふくろ、姉さんと4人で、入学式会場に着いた。

入学式当日、事前のオリエンテーションで会った(後の悪)友に、一番前に座っている僕の横に来て、

『なにすかしてんのよ。』

『本当に宣誓読むんじゃないよね』

まだ信じねえのか、こいつら!、まあいいか。

入学式が始まり、

『新入生宣誓。入学生代表、宮代良浩!』

『はい!』

で、壇上に立ち宣誓を読んだ。

『本当に読んじゃったよ。本当だったんだあ』と悪友。

こんな風に大学生活がスタートした。

どんな未来が待っているのだろうか。
  


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2012年11月14日

人生の折り返し地点

55歳になった。

僕の人生の折り返し地点であることにした。

110歳までの僕の人生のちょうど半分。

なぜ110歳かというと、こんな会話からこの年齢になった。

『私は100歳になったら記念セミナーをやります。どこかの温泉で、皆さんにお祝いしていただきながら、ゆったりとした時間を過ごします。』と、土方良子さん。

『その時はみなさんをご招待しますので、ぜひ来てください。でも条件があって、自分の力で来ることができることです。誰かの力を借りてじゃだめです。』

『じゃあ、僕も参加します。土方さんが100歳なら、僕は9歳年上なので、109歳まで生きます。』

『宮代さん、計算違いしてますよ。宮代さんの誕生日は5月で、私は11月だから、109歳になって死んじゃったら、11月の記念セミナーには、間に合いませんよ。』

『みんなで言っちゃいますよ。“宮代さんらしいね。計算違いして、先に逝っちゃったね。”なんてね。』

『そうか。109歳と半年は生きなければですね。セミナー中にポックリじゃあ迷惑かけるので、110歳まで生きます。でもなあ、109歳で死んじゃっても、みんながその時に僕のことが話題になって、僕を思い出してくれれば、それはそれでうれしい気もするなあ。』

とこんな会話から、僕の寿命は110歳になったのです。

そして、ついでと言ってはなんですが、自分の生きてきた軌跡みたいなものを残したく、本を書こうと思い、こうして書いているのです。

でも、今このページを書いているのは、実は56歳の僕で、2012年の5月27日までに書くつもりだったところを書いている、口だけ男になりつつ、書かなければ書かなければと、焦りを感じている55歳の僕であった。

  


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2012年10月30日

一生の友達と一生の音楽との出会い

中学3年生の時に、ある友人と仲良くなった。

それは“寿夫”という名前で、熊本出身の同級生だった。

それまでは同じ学校だったが、クラスは一緒になったことはなく、会話することはなかった。

私はバスケットボール、寿夫はテニス部だった。

『けッ、テニスなんか女のやるスポーツさ。』という変な考え。

あの“眼にくま”事件からきているのであろう。

私は中学二年生の時に、ある音楽、あるミュージシャンに出会った。

サイモンとガーファンクルだ。

代表曲は、“明日にかける橋”とか“サウンドオブサイレンス”

それまでの音楽とガラッと変わった。

“影を慕いて”からだから、どうしたんだろうか。

いや、この年頃ならばこの方が自然かも。

ギター弾いて良く歌った。

ある日、“スカボローフェア”を歌っていたら、寿夫が近くでハモった。

驚きと感激で鳥肌が立った。

『知ってんのか?』、『知ってるよ』

それからはお互い知っている歌を、一緒にハモった。

当然どちらがメロディーで、どちらがハモりか。

曲によって自然と決まる。

学校の帰り道は、いつも一緒だったし、いつも歌っていた。

このころは高校入試の勉強をしなければならない時期だったが、いつも家ではギターを弾いて歌っていた。

もちろんお袋からは、怒られっぱなし。

スポーツを精一杯やってきたから、今度は勉強だ、と言われてきたが、音楽に精一杯になってしまった。

高校も同じところに進学。

フォークソング同好会という団体に入団。

ふたりでいつも歌っていた。

結構周りから注目されたりして。

音楽があれば、生きていける、音楽で生きていきたい。

なんて、夢のようなことを考え出したのも、このころだった。

ライトミュージックコンテストで、沼津大会で特別賞。

静岡県大会に進み、テレビに出た!

マジに音楽の道に進もうと考えた。

おふくろからは、『もういい加減にして、大学受験の勉強をしなさい。』

一気に覚めた。

その時に考えたのが、どちらに進むか。

音楽の道か、普通の会社員か。

音楽に道に進んで、曲ができるか。

できたとして、売れるか。売れなかったらどうするか。

キャバレーまわりの生活が耐えられるか。

できるか自分。

だめだったら次はどうするか。

本当に真剣に考えているか?

で、結局は大学に進んで、コンピュータへの道を選んだのだった。

  


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2012年10月26日

最高の中学生時代

中学に入ってから、音楽はさらに好きになった。

先生が良かったからなのか、音楽の授業はいつもとても楽しく、興味がそそられる授業をしてくれた。

クラシックの楽しさや、楽器の演奏、音を合わせる心地よさ。

中でも強烈に残っているのが、レコードをかけての授業。

かなり良いサウンドシステムだとのこと。

聞かせてくれたのは、『魔王』 ゲーテ作詞、シューベルト作曲



風のように馬を駆り 駆けりゆく者あり

腕に童(わらべ)帯びゆるを しっかとばかり抱きけり

坊や なぜ顔を隠すか

お父さんそこに見えないの

魔王が居る 怖いよ

坊や それは狭霧じゃ

可愛い坊やおいでよ おもしろい遊びをしよう

川岸に花咲き 綺麗なおべべがたんとある

お父さん お父さん 聞こえないの

魔王が何か言うよ

なあに あれは 枯れ葉のざわめきじゃ



中学の一年のときだったか、かなりの衝撃を受けた。

魔王が坊やおいでと誘っている。

子供は怖くて父親に話すが、それは枯葉のざわめきじゃと返されるだけ。

曲調とリズム、語り手、魔王、子供、お父さんの4人分の声の使い。

今でもはっきり記憶に残りる授業だった。

人に惚れられたのもこのころ。

私はバスケットボールをやっていた。

体育館の中で、キュッキュッとバッシューの音を立てながらの練習。

試合となれば見物人や応援で、コートの周りは人でいっぱい。

そんな中で、さすがに一年生のときは、ワンポイントしか出してもらえなかったが、練習のときから結構目立っていたそうな。

一つ年上の和枝ちゃんから、人伝に私のことが “好き” ということを知った。

“だからなに”的な反応しかできない私に、周りの冷やかし。

そんな状態に気付いたバスケットボールの顧問の先生が、私を呼び出し、『そんなこと考えていないで、勉強しろ!』とのこと。

“なんだよ!” と思ったが、“まあここはそういうことにしとくか” と、何ともプレイボーイ的な対応。

何てキザで生意気なクソガキだ。

勉強はそこそこで、バスケットボール命の3年間だった。

先生や先輩から、さらに親父からも、今この時期は、勉強よりスポーツに打ち込むと良い。

スポーツで鍛えられた根性は、必ず勉強に役に立つ!

なので、思い切りバスケットにのめり込んだ。

3年生が引退して、2年生と1年生のチームになったとき、貧弱といってもいいような弱いチームだった。

当時の強いチームと当たった時、前半ゼロ点という屈辱を味わった。

こんなこと普通はないだろうね。

1点ぐらいは入るだろうに。

サッカーじゃあるまいし、バスケットボールだよ!

でも本当にゼロ点だったのです。

それからは、だれからともなく放課後の活動はもちろん、休日も一人二人と学校に自主的に集まり練習。

気づくとチーム全員が集まって練習していた。

気持ちと心が一つになった瞬間だったんだと思う。

強くなった。

いろんな学校のチームと試合をして、ほとんど勝利。

前半ゼロ点の屈辱を味わわされたチームと再度勝負。

惜しくも負けはしたが、僅差での敗退。

満足した試合だった。

また、一生の音楽と親友に出会ったのも、このころだった。
  


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2012年10月24日

音楽に目覚めた小学校高学年

小学校中高学年、近所のガキ大将だったような気がする。

思い出に残っていることが、あまりない。

近所の年下の子分を引き連れて、山の中を駈けずり回ったり。

小学校4年生のときだったか、新幹線が開通し、初めて乗ったのがこのころ。

あの頃親父は国鉄職員で、新幹線の試乗会みたいのに連れて行かれた。

姉さんは、『いつも良浩ばっかり!』と羨ましがっていたが、『僕男だもん』と訳のわからないことを言って、ひんしゅくを買っていた。

そういえば姉さんは、『お前は女だから必要ない』とか『良浩は長男だから』とか言われて、いろいろ我慢させられていた。

今思うと、気の毒なことをした気持ちになる。

その頃は、得をした気持ちになっていたが、それから数十年たって、いろいろ力になってくれるのは、姉であることを、知る由もなかった。

5年生の体育の授業で経験したテニス。

初めてラケットというものに触り、ボレーの練習とかでネットの前に。

先生が打って、ラケットでボールを正面で受け、ネットの向こう側に落とす練習。

こんなの簡単だろうと思ってボールを待っていると、意外に速い球が来た。

ヤッ!とラケットで受けようとしたが、前に倒しすぎたのか、早すぎたのか、一瞬で私の右目に命中した。

右目というか右目の周り全体。

暫くすると、漫画なんかで見るような目の周りが、うっすらとだが黒くなっていた。

それを見て先生がこちらを見てニタニタし、その顔の中に『とろい奴だ』と言っているところを、私は見逃さなかった。

その瞬間、テニスは僕の中からは完全に抹消された。

6年生になり、これもまた姉からの影響なのだが、姉がギターを持ってきた。

映画『禁じられた遊び』の主題曲、『愛のロマンス』を練習している。

上手いのかどうなのかさっぱりわからなかったが、弾いているのを聞いていて、私もやりたくなるのです。

なんでも姉さんの真似をしたくなる子供だった。

『僕にもやらして』

教わりながら、弦一本でまずはメロディーを。

数日して、姉より上手くなってしまった。

そんな時、私の従兄もギターをやっていると母から聞き、早速、従兄のところに行って、ギターを聞かせてもらった。

『すごい!』

これが第一印象。

ギターの音の美しさ、音の重なり合い、同時に出る音が絡み合い、耳にやさしく入ってくる。

これが私が、ギターに音楽にのめり込むきっかけになった。

こうなるとどうしても自分のギターが欲しくなり、6年生の正月に、お年玉を握りしめ、楽器屋に従兄に連れて行ってもらった。

その時に購入したギターは、『愛好家のために、特に入念に制作しました。』と、中に貼られている。

その後40年以上使っていて、板のそりとか全く問題なく使えているから、かなり優れたものであることは間違いない。

従兄が好んでいる曲は、古賀政男の音楽。

なので私が最初に引いたのは、“影を慕いて”。

小学校6年生が弾く曲かどうか別として、ムードを出してそれなりに弾いていた。

後は、ラテン系の曲、クラシック、等々。

ギターの通信教育を受けたりして、夢中になっていたころだった。
  


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2012年10月22日

小学校低学年

小学校に入って、でっかいランドセルを背負って、ここでも姉さんに手を引かれて登校。

入学式のことは、あまり覚えていない。

ただ入場行進するとき、一緒に手をつないだ女の子が、“やけに猿に似てるな”とだけ、記憶に残っている。

数年経って、その子に『あの時さあ、私と手をつないだんだよねえ』と、サリーちゃんの友達のよしこちゃんのような声で、周りに聞こえるように言われた。

勉強はしっかりやる子だった気がする。

運動はまあまあ。

運動会の鼓笛隊では、小太鼓をやりたかったけど、その他大勢のリコーダー。

あまり目立たない子供だった気がする。

低学年のころはすぐに熱を出し、虚弱体質というか、ガリガリで弱~い子供だったらしい。

ある日、親父とおじさん(親父の弟)とで、近くのお祭りに出かけたとき、おじさんが、『良浩、走ってみろ。』と突然言う。

僕は身体がだるーい感じだったので、『やだよう』と言って走るのを拒否。

“だるい”と言う表現はその時は解らなく、身体がなんか気持ち悪い感覚だった気がする。

それを見ていたおじさんは、『なんかおかしいな。』と親父に言う。

数日して、おふくろにかかり付けの医者に連れて行かれた。

『う~ん、これはちょっとまずいな。』

医者が言うのを聞いて、“誰かがきっと病気なんだ。かわいそうに。”

と思っていると、

『紹介状を書くから、市立病院で検査を受けてください。』

“げッ、僕のことかよ!”

病院に行ったら、即入院になってしまった。

初めは訳が分からなく、即入院ってなんだよ、お風呂も入ってないし、宿題はやらなくてもいいの?先生にはなんて言う?

こんなことを考えている。

本当に即入院で、子供病棟がいっぱいなので、普通病棟に入れられた。

もちろん付き添いは無し。

なのでおふくろが帰るときは、泣いた。

めそめそと眠るまで泣いた。

その晩、ベッドから落っこちて、おでこをどこかに思いっきりぶつけたけど、恥ずかしさで痛さも感じずに、約1秒半でベッドに戻った。

翌朝、同室の誰かが、『昨夜でっかい音がしたけど、だれか落っこちたのか?』

意地が悪いなあ、僕ですなんて言えないもん、恥ずかしいんだよ。

生まれて初めてのベッドだもん。

不思議なもので、それ以降は二度と落っこちてないから、体が覚えたってことでしょう。

ところで病状は、蛋白が異常に尿に含まれるということで、腎炎とのこと。

顔や手足がむくみ、身体がだるく、結構やばい状態だったそうな。

少し前に熱を出した時に、熱を下げるためのペニシリン注射をうたれた。

それが腎臓に負担をかけたのではないかと、親父から聞いた。

治療は、毎日注射をして、安静にしていた。

尿の出が悪くもなるようで、どれくらい出たかを見るために、おしっこをでかい透明の瓶のようなものに貯めるのです。

それがいろいろの人用の瓶が、一つの小さい部屋にあり、異様なにおいがしたのを憶えている。

食べ物は、食事療法なのか、塩も砂糖も醤油も何も使っていないような病院食。

味がしないのです、まったく。

その頃、カリフラワーが安くて栄養があるとかで、ほぼ毎日出された。

ただ茹でてあるだけのカリフラワー

塩もマヨネーズやドレッシングも無し!

毎日食べさせられた。

最初は食べたけれど、途中でどうしても食べられなくなり、つらかったなあ。

ご飯のとき、カリフラワーが出たときは、本当に嫌で泣いた。

お蔭で、あのカリフラワー自体の味が嫌いになり、いまだに食べられないから、すごいです。

蛋白が減り、尿の量の増えてくると、少しずつ味がついてきた。

蕎麦が出た時があって、汁の味もまだまだ薄いのだけど、あのカリフラワーに比べれば、この世のものかと思うほど美味かった。

確か、70日間ぐらい入院したと思う。

もう少し伸びると、もう一度1年生をやらなければならないくらいの期間を入院。

入院中はクラスメイトから手紙が届いたりして、『先生気を使ってるなあ』なんて思いながら読んだものです。

“宮代君がいなくて寂しいです”

“早く元気になってください”

“退院したら一緒に遊びましょう”

一回も口をきいたことのない奴からこんな手紙。

なんかなあ、がその時の感想でした。

先生もたいへんだねえ。

一応チェックとかしてんのかなあ。

こんなことを思う、こまっしゃくれた小学校低学年の僕でした。

  


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2012年10月19日

初めての集団生活

保育園に入園し、はじめての集団生活。

初めてのクラスが“さくら組”で、先生は晴山先生。

当時は珍しかった保育園バスでの送迎。

いつも同じ席に座らされ、窓から手を出したりして怒られ、手だと怒られるから、脚か頭ならいいか、なんて考えたり。

雨の日の保育園バスは、今でも時々思い出す。

エアコンなんかないので、あのじっとりとした感触。

曇った窓を手でふき、雨だれのついた外の景色を眺めてる。

路面に溜まった雨水を、バスのタイヤがはじく音。

フロントガラスのワイパーの作動音。

室内の淀んだ油まじりの匂い。

今でもこれらが好きなのは、この時の記憶が影響しているのか。

ある日の帰りのバスの中、

『あ~あ、今日はお母ちゃんにどうやって言おう。』

この時、とても悩んでいたことがあった。

それは、同級生のしゅんちゃんが、

『パンもってこい!』

と私を脅かして言うのだ。

その保育園は弁当持ちで、当然しゅんちゃんも弁当を持ってきている。

それ以外に、私を脅して持ってこさせたパンを食べるのだ。

当時近所に、叔母が駄菓子屋をやっていたので、いつもそこでパンをお袋に買ってもらっていた。

『あんたは、お弁当も食べて、パンも食べてくるの?』

『うん、そうだよ。』

『たくさん食べるね、お弁当をもっと多くしてあげようか?』

『いいよ、いいよ。パン食べたいから、今のままで。』

ウソである。

私はその時、嘘をついていた。

お袋に嘘をついて、パンを買わせ、同級生に巻き上げられていた。

それを言えなくて、嘘でごまかしていた。

つらかった、いじめられていること、嘘をつくこと。

これらもつらかったが、なんといってもお袋を騙していることが、もの凄くつらかった。

しばらくして、不審に思ったお袋が、

『あんたは、本当にお弁当のほかにパンも食べてるの?』

『もし違うのであれば、何があるのか教えて。』

そして、私は本当のことを話した。

『しゅんちゃんが、パンもってこいって言うから。怖いから。』

この時、もの凄く気持ちが軽くなったことを、今でも憶えている。

もうこれで、お袋を騙さなくてもいい。

本当のことを言えて、良かった。

それからお袋は保育園に問い合わせた。

すぐに晴山先生がしゅんちゃんに聞いて、

『ごめんなさい。』

としゅんちゃんが私に謝った。

それからは、しゅんちゃんとは、一番の仲良しになった。

しかしあの時、しゅんちゃんにいじめられていると、なぜすぐにお袋に言えなかったのか。

お袋に心配かけたくなかったからなのか。

怒られると思っていたからなのか。

両方か?

何れにしても、人を騙すつらさを覚えたのでした。

  


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2012年10月18日

もの心ついたころ

1.遠い記憶の中から

大きな物体が、私の目の前で止まった。

まさしく生まれて初めての光景である。

まだ舗装されていない道路に、私は横たわっている。

おでこをぶつけたらしい。たんこぶができていた。

知らないおじさんが、とても怖い顔をして、私を抱きかかえ、

『ばっか野郎、大丈夫か!』

すると祖母が血相を変えて走ってきて、

『この子が死んだら、私も死ぬ~!』と言いながら、

私をむんずとつかんで、おいおい泣きだした。

記憶はここまで、そのショックで記憶をなくしたわけではなく、ただ小さかったから。

後から父親に聞いた話だが、

『間一髪セーフだったらしい。あと1メートル、いや、あと1秒ブレーキを踏むのが遅れたら、お前は今ここにはいなかったな。』だそうだ。

それは私の家の前を通るバスで、当時沼津市では初めてのゴルフ場で働く人たちを送り迎えしていた。

『うっそッ!やばかったじゃん。』

『バスの運転手も、真っ青だったってさ。』

『僕が死ななくてよかったねえ、へへへ。 だからなんか買って。』(意味不明だが)

おふくろのげんこつをくらったのでした。

このことが結構強く記憶に焼き付いている。

目の前で止まったタイヤを見たような気になるのだが、後から脳みそが作った光景なのだろうか。


2~3歳ぐらいのときだと思う。

私はこのころから祖母に昼間は子守されていた。

母親は近所の鉄工場の事務員で働いていた。

祖母だからやりたい放題で、わがままなどうしようもない子だった気がする。


春の暖かい日のこと、

タンポポが咲いている芝生で、小さい蜂のようなやつが飛んでいる。

蜜蜂とは違っていて、もう一回り小さく、弱そうな感じがした。

捕まえようという生まれて初めての感覚。

そっと近づき、はっと手で捕まえた。

やった!と思った瞬間、これも生まれて初めての感触。

チクッ!

ギャーと大泣きしたのは言うまでもない。


あるお祭りの日、家の前にお神輿が置いてあった。

これはいいチャンスと、親父はお神輿の前の担ぐときに肩にあてる部分の間に私を置き、写真を撮ろうとしている。

『ええ~ん、ヤダよ~う。』

『大丈夫だから、ここに立ってろ。』

『ヤダあ~。』

大泣きし、どうしても中に入ろうとしない。

『しょうがねえなあ。』

仕方ないので、お神輿の側面でばあちゃんの手を握っての記念写真。

だって、なぜかって、どこかに連れて行かれるような気がしたんだもん。

誰かというと、お神輿に。


兄弟は、姉さんだけ、いつも後ろにくっついていた。

時々邪魔にされたけれど、お構いなし。

姉さんがどこかに友達と遊びに行く時も、

『ぼくもいく。』と言ってくっついていく。

『あんたは、家にいなってば。』

『ええ~ん』と言えば、

『久美子、一緒に遊んでやんな。』(久美子とは私の姉です。)

『まったくもお!』

『えへへ。』とこんな感じですかね。

はじめて家に置いてきぼりにされたときは、捨てられた気がしたなあ。


そんな幼少期をすごしたわけで、とにかくわがままで、ばあちゃんに甘やかされて、すくすくと育ったのでした。

行動範囲は極端に狭く、家の敷地が私が一人で動ける世界。

この世界を自分勝手に支配しているつもりで。

母親という強敵に見つからないようにしながら。

草いきれ、お日様の日差しの匂い、乾いた土の香り

ここまで書いた遠い記憶のすべてに、これらの匂いがついている。

懐かしいというよりも、頭の周りを纏わりつくような感覚。

蜂(みたいなやつ)に刺された時の光景と匂いは、特に鮮明に蘇る。
  


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2012年10月17日

あとがき

このあとがきは、この本を書き始める前に書いています。

それは、この本が書きあがってからでは、ひょっとすると書けなくなっているかもしれないからです。

私がこの本を書くきっかけになったのは、たぶんプロローグに書いてある筈なので、ここでは割愛しますが、死ぬまで(いや、書けなくなるまで)自分の人生について、自分の人生に起こったことを書こうと決めたからです。

なので、書けなくなるまで書くので、書けなくなってからの“あとがき”では、手遅れになってしまうからです。

この本に書いたことは、全部事実で、本当に起こったことです。

世間から見たら、波乱万丈とまではいかないかもしれませんが、自分なりに波乱万丈の人生だったと感じています。

この本を皆さんに読んでいただくころは、もしかしたら私はもうこの世にはいないかもしれません。

妻と息子に手を握られ、『君にあえていい人生だった。ありがとう。』と言って、そっと眠るように息を引き取ったことでしょう(多分)。

なぜかふざけた文章になってしまいましたが、こういう風に考えられるようになったのは、私のコーチやコーチ仲間がいたからです。

その方たちから愛され、守られてきたからこそなのです。

私の人生で、何度も人を恨み、自分の人生を悲観し、悔やみもしました。

でも、私のコーチや仲間と出会ってからは、自分が変わることができ、そして、人生が変わったと言っても過言ではないのです。

今の自分が好きになったのも、皆さんのお蔭なのです。

皆さんからお預かりしたこと、今度は私が誰かにお渡しする番です。

これからの残された人生で、ひとりでも多くの人に、『良い人生だった。』と言ってもらえるように。

お蔭様です。

本当の私の最期には、必ずこう言います。

『最高の人生だった』
  


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2012年02月01日

本の原稿を書いていきます。

私はこれから本を書きます。

もちろん製本した本物の本で、出来上がるのは大体50年後を予定しています。

『何を寝とぼけたこと言ってるんだ。』と思いましたね。

なので、この本を書こうと思ったきっかけをお話しします。

この本は、今55歳の私が、今まで生きてきた軌跡みたいなものを書いて、そしてこれから生きるであろう55年間の、様子を書いていこうと思っています。

『???、今までの55年間と、これからの55年?、てことは合計で110歳まで生きるつもりか!』、という声が聞こえてきました。

そうです、110歳まで生きて書き続けて、出来上がった本を、ある方たちにプレゼントするのです。

本を受け取ってくださる方たちも、その頃は100歳前後になります。

そう約束したので、これを私の最長のビジョンにしました。

そもそも本を書こうと思ったのは、何年か前、私の奥さんに、今までの私の人生での出来事を話した時に、『あなた、それを本にしてみたら。』なんて言われたんですね。 その時は、『本なんか書けないよ。』で終わったのです。

それから暫くして、去年の暮に本を書こうと決めたんです。

そのきっかけになったのは、私のコーチの土方さんが、100歳で記念セミナーをすると以前からお話しされていて、それに私も参加したいと言い張ったのです。
参加するとしたら私は110歳まで(しまった、土方さんの歳をばらしてしまった。)生きなければ参加できません。

で、生きることに決めたのです。

去年55歳になった私は、その110歳のちょうど半分で、区切りが良い!

そんないろいろなきっかけが集まって、本を書くことに決めました。

今年1年かけて、私が産まれてから記憶がある頃から、55歳までに起こった出来事や、気持ちの変化、どんなことを考えていたかなど、いろんなことを節目節目で書いていきます。

そして来年から、誕生日がくるごとに、その時の出来事や、考えていたこと、などを書いていきます。

自分の力で書けなくなるまで書いて、そして最後に製本します。

それをこのブログに載せていきます。

お暇ならどうぞご覧ください。

アメブロの方に更新したらお知らせしますので、そちらもご覧ください。

では、文才のない私が、頑張って一生をかけて書きます。

どうぞご期待ください!
  


Posted by 宮代 良浩 at 07:00Comments(0)私の本